中野サンプラザが2023年7月をもって閉館することが決まった。
足繫くライブに行く私にとって、避けては通れない場所だった。
というか、数多くのライブ・コンサート会場の中でも一番好きなハコだった。
数年前から中野駅周辺の再開発の話は耳にしていたから、心の準備はできていたつもりだった。
とはいえ、いざ閉館のお知らせを聞くと、やっぱり寂しい。
中野サンプラザホールには、他の会場にはない空気が漂っていたように思う。
霊感などは全くないが、あの会場には間違いなく“何か”が宿っていたように感じる。
その“何か”を言葉にするのは難しい。
強いて言うなら、「数多くの表現者と観客が積み上げてきた歴史」だろうか。
歴史に色や形があったら、きっとあの会場のキャパでは収まらないくらいパンパンに膨れ上がっていただろう。
たまたま歴史という時間が目に見えなかったから、空気という形で残ったのかもしれない。
私は、たまにあの空気を無性に吸いたくなる。
数えあげたらキリがないくらい、たくさんのアーティストをあの会場で観た。
というかあの会場に行きたいから、チケットを取ることさえあった。
でも一方で、ここ数年はあの会場の空気に恐怖すらも感じていた。
とっても大事な場所だからこそ、迂闊に足を運んだら、全てを持っていかれてしまいそうな恐怖。
空気の濃度が濃すぎて、いっぱいいっぱいになってしまうんじゃないかという恐怖。
いつしか中野サンプラザでライブを観るときは、他の会場ではないギアを一段入れて行っていたように思う。
それでもあのステージと対峙した瞬間の安堵感とときめきは、安定して私の胸を躍らせてくれた。
2028年にはキャパ約8000人の新しい建物ができるらしい。
現在の中野サンプラザのキャパは2200くらいだから、およそ4倍。
4倍の規模になったピカピカの会場に、あの空気は残っているのだろうか。
残っていたとしても、今の中野サンプラザとは全く別物になってしまうのだろう。
今は色んな想いが頭の中で渦巻いている。
過去の思い出たちが懐かしいなとか、なくなってしまうのは寂しいなとか、それでもお疲れさまと感謝の念を伝えたいな、とか。
正直、気持ちはまだ整理できていない。
軽い気持ちで「ありがとう」と別れを告げられるほど味気ない場所でもない。
少しずつ、少しずつ、気持ちを整理していく作業が必要になってくるのだろう。
この文章もその作業の1つだ。
たくさんの思い出が詰まっている。
中野サンプラザのほかにも、昨年から今年にかけて、行きつけのハコが立て続けになくなった。
Zepp Tokyoと新木場STUDIO COAST。
前者は昨年末、後者は今年の1月末をもってそれぞれ営業を終了した。
幸運なことにどちらも閉館間際にライブを観納めることはできたが、切なさはひとしおだった。
思い出が詰まったあの場所は、もうない。
その事実をまるっと受け入れられているのかと問われると、さほど自信がない。
ここでこの記事のタイトルに戻ろう。
「思い出は場所とともにあるのだろうか?」
もしこの答えが“Yes”なら、あの場所がなくなった今、思い出も消えてしまうことになる。
それは違うだろう……。
……違うのか?
たしかに今やZeppやコーストは、私たちの脳内にしかない。
思い出のありかが脳内にしかないのなら、私たちが1人残らずすっかりと忘れてしまわない限り、残り続けるだろう。
しかし思い出って、本当に脳内だけにしか残らないのだろうか?
思い出は、その時代と場所にも残り続けていくのではないだろうか。
だから、思い出の場所がふいになくなったとき、心が引き裂かれるような気持ちになるのではないだろうか。
きっと思い出は場所にも存在する。
そう仮定して考えていくと、この切なさに理由付けができるような気がするのだ。
そして思い出は、場所だけでなくその時代にも残る。
この仮定も考えていくと、私たちは毎日思い出を残しながら生活しているということになる。
でも時間は一方向にしか流れないという常識に縛られた私たちは、思い出を時代に残すことについては慣れきってしまった。
毎日切なくなっていては、身がもたないからだ。
そうやって私たちは、思い出は脳内や場所や時代と、色々なところに残しつつ時を刻んでいる。
悲しみや切なさを分散させるためにも、思い出は色々なところに残しておくのがいいだろう。
それは紙に書く日記だったり、キーボードを打つブログだったり、楽器を使った作曲だったり、あるいはその他の表現方法でもいい。
思い出を色々なところに残しつつ、私たちはその欠片を愛でていく。
たとえ場所がなくなっても、思い出の欠片は周りにたくさん散らばっている。
そう考えると、大好きだった場所がなくなる寂しさに、かたをつけられそうな気がする。
気がつけば別れを経験するくらいの歳月を、ライブへ行くことに費やしてしまった。
きっとこれからも数多くの別れがあったり、新たな場所に思い出を刻んでいったりするのだろう。
たとえ思い出の場所はなくなっても、思い出を作ったという事実は消えない。
良くも悪くも時間は一方向にしか進んでいかないと思い込めているから。
だから、思い出の一部(場所)とさよならするのは辛いけど、場所以外の方法で保管した思い出で補完していこう。
この文章も、思い出の一つになればいいと思う。
だからどうしても「今までありがとう」とは言いたくない。
場所はなくなっても、思い出はたくさん残っているんだから。